浮世絵師の一生     
          生没年 寛政9年(1797)〜安政5年(1858)
          作画期 文政9年(1812)〜同上  62歳死去


出生
本姓は田中氏。曽祖父の田中徳太郎の名をとり幼名 徳太郎、 成人して重右衛門 。

江戸八代州河岸の定火消屋敷の同心で、三十俵二人扶持の安藤家へ入り婿となる。
入門
幼少の頃から絵を好み狩野派、四条派、中国画と学ぶが歌川豊広(1773〜1828)の門人となる。歌川と称し広重と号す。

後に、一遊斎、一立斎、立斎と改名し又、作品では、始め美人画や役者絵を描いたが、天保4年(1833)「東海道五十三次」を発表し風景画の第一人者となった。
作画期 文化3年 (1806)10歳 江戸幕府の琉球人の来貢使の行列を描いた。
文化6年 (1809)13歳 母が2月13日死去、父源右衛門が12月27日死去して、相次いで一年以内で両親とも病死したので、火消し同心の家業を継ぐ。 
文化9年 (18011)15歳 歌川豊広(1773〜1828)へ入門。広重と号し、始め美人画を描く。
文政6年 (1823)27歳 同心を退隠し、子の仲次郎に譲り画に専念す。
文政12年 (1829)33歳 の時に、師の豊広死去(55歳)す。師の豊広より几帳面さ、高尚さや、情緒あふるる風景画での影響を大きく受けたといわれる。

 後に、「東都名所」、 「東海道五十三次」など発表し、風景画家としての地位を不動のものにした。
作品
「東都名所」


「東海道五十三次」


「近江八景」


「東都名所之内」


「浪花名所絵図」


「金沢八景」


「東海道五十三次名所図会」


「阿波鳴門の風景」

八千点 広重は40年間に八千点残したといわれる。 風雨と雪月花を詩情豊かに描き、 そのうち三千点は風景画といわれまた、「東海道五十三次」も2万枚刷られたといわれる。
広重の生活
広重の好きなものは、娘「お辰」(養女)が書き付けておいた覚え書きによると、
赤貝のさんばい、鮃のさしみ、鮃のぬた、細魚(さより)の吸い物、にしんしめ、湯豆腐、(鯛を塩して焼き 鍋に入れて煮た処へ豆腐をいれたもの )
などがある。ある晩、貝のさんばいに、芙容葉の胡麻あえでお酒を飲んでいたら、貝のひも柱の間から真珠が出てきたので、珍しい事と大変喜びその真珠を常に紙入れに入れていた。

  また、葛飾北斎(1760〜1849)90歳が死去した時、広重は53歳であった.

広重曰く「北斎先生とわしの辿る道は違っているが、死ぬまで修業というのにわ変わりはない。」と言ったという。
静の作品
評論家は、葛飾北斎の個性の強い作風に対し、
歌川広重の作品は、自然と人間とを巧みに融和させ、日本的情緒を持たせた独特の作風であり、

北斎の「動」の作家なら、
広重は「静」の作}家といわれる。
広重死去 安政五年 (1858)コレラ大流行により、広重は9月2日発病し9月6日暁病没す。62歳。 墓所 浅草東岳寺 法名 「顕功院徳翁位斎居士」。
  
      広重のほかに、コレラで死んだ文人は、小説家山東京伝、柳亭種彦、講談師貞山、浄瑠璃三世清元延壽太夫、書家市河米庵、画家青青、其一 などがおり、
当時発病してから3日で急死するので、3日コロリと言った。
遺言
「死んでいく 地獄の沙汰はともかくも 跡の始末が金次第なれ」

    広重はあれほど絵を描いても、老後に一銭の蓄えも無く、多少の借金を残して死んだ事は、かれの遺言がそれを物語っている。
  
辞世
「東路へ 筆を残して 旅の空 西の御国の名ところを見舞」
古歌
「我死なば 焼くな埋めるな 野に捨てよ 飢えたる犬の腹を肥やせよ」
妻、お安

始めの妻は病没し、後添えに「お安」という。遠州の百性の家に生まれ、広重の仕事を助けよい妻であった。

明治元年世を去っており 墓所は同じ墓とか。